本誌Vol.37の「イケメン処方いたします」の東京2020パラリンピック水泳日本代表選手の富田宇宙(とみた・うちゅう)さんのインタビュー。
こちらでは、誌面で書ききれなかった部分を特別編としてお伝えします。
病気が発覚した高校時代、夢はあきらめた。
高校2年の時に黒板の文字が読みづらくなったので眼科で検査したところ、網膜色素変性症と診断されました。富田さんは「それまで目指していた『宇宙開発に携わる』という将来の目標はあきらめなければならないという絶望感に襲われた」と話します。
富田さんは高校で水泳部に所属していました。その頃の視力は泳ぐ上では大きな影響はなく、時間帯によってはペースクロック(プールサイドに設置されている秒針と分針が別れている大型の時計)やプールの壁が見えにくくなる程度でしたので、一般的に引退する時期まで部活を続けました。もっとも、出身校は水泳の強豪というわけではなく、文武両道を掲げる進学校で、勉強と部活の両方を一生懸命やるという環境でした。何か運動部に入ろうと考えて、なんとなくそれまでやってきた水泳を続けることを選んだのだと言います。
一方で、文字が読みづらい、図を認識できないなど勉強することには大きな影響があり、モチベーションも低下しました。「1年間浪人したものの勉強はほとんどしませんでした。目標がなくなったことで自暴自棄になっていたんです」と富田さん。地方都市では車の運転ができないと生活に不便が多く、病気の進行を考慮すると、早い段階で首都圏で生活の基盤を築くことが不可欠であると考え、東京の大学に進学しました。
夢中になれるものを探し、ダンス一色の大学生活。
富田さんは視覚障がい者にもできる仕事として鍼灸やマッサージのほかにプログラミングがあることを知り、SE(システムエンジニア)を目指して情報科学系の大学に進学したものの、これまでのように「夢」と呼べるだけの熱意はありませんでした。
そこで大学の授業以外に自分が楽しめるものや打ち込めるものを探し、演劇、競技ダンス、漫画/アニメ/ゲームの研究などを試しました。
富田さんは幼少期から人前に立つことが好きで、多くの場面で主役やリーダーを買って出ていたそうで、まずは以前から興味のあった演劇に挑戦しました。しかし、見えないことで舞台暗転中の移動や配られた台本の読み合わせに難儀しました。また、アニメや漫画がもともと好きだったのでそうしたサークルにも入りましたが、視野が欠損するにつれ、それらも楽しめなくなってしまいました。ただ、これは後に、録音図書に出会ったことで読書という趣味に置き替わりました。
一方、競技ダンスについては当時の視力では大きな問題は感じませんでした。結果、富田さんの大学生活は徐々にダンス漬けになっていきました。1日に10時間練習することもざらで、その甲斐あってダンス部の主将となり全国選抜にも出場しました。「目が不自由なせいでコンビニ店員など一般的なアルバイトは難しかったので、ダンスインストラクターとして働けて、経済的にも助かりました」と当時を振り返ります。
出来ることがひとつ減り、探し、それがまたできなくなる。
大学卒業後はSEとして企業に就職しました。当時のパートナーと国際大会に出るという目標があり、就職して2年ほどは競技ダンスも続けていました。でも、その間にも病気の進行は進み、競技ダンスにも支障が大きくなってきてだんだんとパートナーの足を引っ張っていると感じるようになりました。
仕事でも、資格を取得したり昇格試験にいち早く合格したりするなど、障がいに負けじと努力を続けていましたが、結局、一般的な作業になるとどうしても人より大幅に時間がかかってしまいます。どうにか働き続けることはできるとしても、活躍や昇進は望めない。
頑張っているのに成果が得られない。やがて富田さんは、無理をして健常者と同じように活動していくことに限界を感じ、「視覚障がいを積極的に周りに伝え、障がいを活かして生きていかなければならない」と思い始めました。
パラ水泳を開始。目が見えなくなっていくことをプラスに。
富田さんは、遠くない将来、自分に起こることを見据えてパラ水泳を始めました。というのも、パラ水泳の視覚障がいクラスは3つに分かれていて障がいが重くなるほどに選手層が薄くなるので、見えなくなるほどに競技として有利になるのです。「目が見えなくなることがプラスに作用することって他ではほぼありえないですよね。それがパラ水泳を始めた大きな理由でもあります」と富田さん。水泳の経験があったことでチームに歓迎されたこともパラ水泳をやっていこうと思うきっかけになったそうです。
「できないことが増えていく生活の中でも、パラ水泳では記録を縮めることで自分の成長を確認することができました。その頃の私は、何でもいいから自分の力を発揮できる、努力が成果につながる、正当に評価される場所が欲しかったんだと思います」。こうして富田さんは、競技ダンスを引退し、パラ水泳に本格的に取り組んでいきました。
本格的にパラアスリートに。パラリンピック代表をつかみ取る。
パラアスリートに転身した当初、パラリンピックに出場できる力は富田さんにはまだほとんどありませんでした。パラリンピックの代表になるには、世界で十分に闘えるレベルであることが必要で、国内で一位だからといって出られるわけではありません。さらに、出場する選手の間でもレベルの差が大きく、ただ出場するだけの選手とメダルを獲るような選手ではタイムに大きな開きがあります。
「私はパラ水泳を始めた時点で一応国内ではトップにいましたが、世界の同じクラスの選手達とはとても大きな実力差がありました。そんな頃にパラリンピックの東京開催が決定し、私がもっと頑張らなければ活躍できる選手がいない、という危惧から一層やる気が高まりました」。
富田さんは、競技に専念するため2015年にSEを退職し、パラアスリートとして企業に所属、2017年には活動資金と練習環境の確保のため日本体育大学大学院にも進学しました。自分の定めた目標を達成するために必要な環境を構築し、それを最大限に活用してトレーニングを積み重ねることで記録を伸ばし続けて来ました。
パラスポーツの課題からその意義が見えてくる。
パラスポーツでは全般的に競技人口が少ないだけでなく、さらに障がい別に分類されます。「そのため、健常のアスリートの育成モデルのように、大人数からピラミッド式に選手を選抜していくということができません。タワー型と呼ばれる、最初から少数の選手を、数を減らさないように育成していく形式にならざるを得ないのです。競争が少ない分、競技力が向上しにくく、世界的にまだまだ伸びしろがあります」と富田さん。
一方で、障がいを抱えてスポーツをする上では、競技以外の面で向き合わなければならないハードルもあります。
「パラアスリートがスポーツをする意義は、単にハイパフォーマンスを披露することに留まりません。障がいを持つ選手達が競技力を向上させるためには、様々な障壁と向き合い、社会とつながって協力し合うことでそれらを一つ一つ取り除いていく必要があります。このプロセスはパラアスリート達に立ちはだかる困難であると同時に、共生社会の実現に近づくためのポジティブな影響力も持っているのです」と富田さんは説きます。
パラアスリートとしての努力がもたらすもの。
富田さんは、パラアスリートとして活動していくにつれ、周囲の視線がポジティブに変わっていくのを実感したそうです。視覚に障がいがあることをアピールしていなかった頃は、知人の顔が見えなくて挨拶し損ねたことで誤解を生んで関係がギクシャクしたり、白杖をつきながら再会して気を使わせてしまうことを恐れて、障がいを持つ以前の友人には会わないようにしたりと、自分から積極的に理解を求めることができず苦しんでいました。
「障がい者っていうと『かわいそう』と思われるじゃないですか。でも、私がパラアスリートとして障がいを受け入れて活躍していった時に、周りの人の私に対するイメージがポジティブなものに変わっていったんです。もし、これが私の周りだけではなく社会全体に広がって、今苦しんでいる人達を少しでも楽にしてあげられるとしたら、これほど価値がある仕事はないと思っています」。東京2020パラリンピック競技大会が終了しても、富田さんは前に進み続けます。